夏美


阿部夏美は、高校2年生。
ごく普通の女の子である。
部活動は、吹奏楽部に所属し、クラリネットを担当している。
夏美の穏やかな日常生活が揺らぎ始めたのは、ある事件がきっかけだった。

今年の夏、大人気のゲームソフトが発売された日。
クラブ活動を終えた夏美は、ゲームショップに向かった。
人気のあるソフトだから予約をしなくても手に入るとたかをくくっていた。
それが甘かった。
予約分しか仕入れていなくて、あと1週間は入荷しないらしいのだ。
「あれ?阿部さん?」
夏美が振り向くと同じクラスの安田が立っていた。
「阿部さんも買いに来たの?俺もただ今ゲット!」
安田は、誇らしげにソフトを見せた。
夏美が買えなかったことを話すと安田は、
「じゃあ、手に入るまで俺の家でやればいいじゃん!」とにこやかに話した。

安田は、父の転勤先に母が同行しているためアパートで一人暮らしをしていた。
そのせいか、他のクラスメイトより大人びた雰囲気があった。
彼に胸をときめかせている女子生徒は多かった。
実は、夏美もその一人だった。
夏美は、それから、クラブの練習を終えると安田のアパートに通った。
帰宅するのが夜中になることもしばしばあった。
でも、それはゲームをしていただけだった。

異変は、新学期が始まったときに起きた。

登校した夏美は、いつもと雰囲気が違うのを感じた。
皆の視線が冷たいのだ。
夏美を冷笑しながらヒソヒソ話をする生徒達。
教室の自分の席に向かった夏美は、机を見て愕然とした。
チョークで、大きく卑わいな言葉が書かれていたのだ。
その場に立ちつくしている夏美・・・。
そこへ、クラスは違うが、同じ吹奏楽部の真理が飛び込んできた。
真理は、夏美の腕を掴むと教室の外へ連れ出した。
「夏美、変な噂が広まってるけど本当なの?」
「噂って?」
「夏美が安田君のアパートで通い同棲してるって。」
「えっ!?私、そんなことしてない!一緒にゲームをしてただけなのに!」
夏美は、真理に事情を説明した。
「夏美のことだから、そんなところだとは思ってたけど、ヤバイよね。
みんな信じてるもん。
言い訳すればするほど怪しまれるよね。」
夏美は、途方に暮れた。

登校してきた安田もクラスの雰囲気が違うのに気付いた。
近付こうとした安田に夏美は、訴えるように来るなと合図した。
毅然とした態度をしていれば噂も消えると信じていた。
しかし、夏美に対する嫌がらせはエスカレートしていった。
夏美の所持品が紛失する。
悪戯電話は頻繁にかかってくる。
毎日のように夏美を非難するビラが全校生の机の中に入れられる。
夏美の精神は、ギリギリまで追いつめられていた。
そんなある日、自分の鞄の中に汚物を入れられているのを見て限界に達した。

夏美は、登校しなくなった。

夏美が自宅に閉じこもって三日目の夜。
机に頬杖をつき窓の外に浮かぶ月を眺めて夏美はぼんやりしていた。
高校を卒業したら東京の大学に行く夢もお仕舞いなのかな?
「夏美ー!ちょっと降りてらっしゃい。」
階下から母の呼ぶ声。
居間に入ると父が座っていた。
夏美の父は、若い頃にはかなりのワルでならしていたらしいが、
今では市役所に勤める典型的なマイホームパパだ。
誰よりも夏美を可愛がっていた。
「夏美、最近ずっと学校を休んでるらしいけど、何かあったのか?
もしそうなら、私達なり担任の中沢先生なりに相談する方がいいんじゃないのか?」
「何でもないから、心配しないで。」
夏美は、努めて笑顔で答えた。

部屋に戻ると携帯電話の着信音が鳴った。
真理からだった。

「夏美、元気にしてる?
私が同じクラスだったら夏美を守ってあげられたのに、ゴメンね。
私、考えたんだけど今回の事件ておかしくない?
安田君には何もなくて、なぜ夏美だけが嫌がらせを受けるの?
絶対変だよ!
きっと黒幕になってる奴がいるんだよ。
で、ね、私、これから学校に張り込みに行くつもりなんだ。
実は、安田君にも声をかけてあるんだ。」
夏美は安田の名前を聞いて押し黙った。
「気にすること無いよ!何もやましいことって無いんでしょ?
逃げちゃダメだって!
一緒に犯人を捕まえようよ!ね!」
夏美は、真理に励まされて決心が付いた。

真理の家に勉強をしに行くと両親に嘘をついて学校に向かった。
真理は、懐中電灯を片手に一人で待っていた。
安田は塾が終わったら合流することになっているらしい。

夏美と真理は、夜の学校に忍び込んだ。

夜の学校は、しんと静まり返って不気味だ。
夏美と真理は、身体を引っ付けて懐中電灯の灯りを頼りに廊下を歩いた。
ガタッ!
「今、何か音がしたよね?」
夏美は真理に話しかけた。
「うん。確かに聞こえた。あっちの方だと思うけど。」
身体を堅くしながら歩く二人。
ポッと小さな灯りが動くのが見えた。
教室の中を誰かが懐中電灯を持って彷徨いている。
その教室を恐る恐る覗き込む。
その人物の顔が照らされた。
「真紀!五島真紀だわ!!」

五島真紀は、夏美と同じ吹奏楽部の部員だ。
夏美よりひとつ年下で、クラリネットを演奏している。
高校に入ってから始めた夏美と違い、小学生の時から本格的に練習してきた真紀の
演奏レベルは、相当高かった。
だから、夏美は、内心、真紀が苦手だった。
心の中でバカにされてるのではないかと思っていた。
「真紀の奴!あいつが犯人だったんだよ!私がとっちめてやる!」
興奮する真理を夏美は制止した。
「ちょっと待って。
あの子、ビラを机に入れてるんじゃ無い!」
よく見ると真紀は、机の中を覗き込んで、ビラを回収しているのだ。
夏美は、声を掛けた。
「真紀ちゃん!」
真紀は「キャー!」と叫んで、その場にへたり込んだ。
「私よ、夏美!」
「えっ!阿部先輩!?なぜ、こんな時間に?」
「あなたこそどうしたの?」
真紀は照れながら話した。
「阿部先輩が、お休みしてると私一人でパート練習しなきゃならないでしょ?
楽しくないんですよ。寂しいんですよ。
だから、先輩に早く学校に戻ってほしくて・・・。」
「夜の学校、一人で怖くなかった?」
「怖かったですよー!心臓バクバク!」
「真紀ちゃん・・・、ありがとう。」
「い、いいえ!じゃあ、私!」
真紀は、恥ずかしそうに教室を出ていった。

「あの子も、悪い子じゃなかったんだね。」
「そーよ!私の後輩だもん!」
「夏美のお調子者〜!」
夏美と真理は、じゃれあった。

「もうビラが配られてたということは、もう、犯人も帰ってるね。」
真理が言うと夏美も、
「今日は、私達も帰ろうか?」ということになった。
暗い廊下を出口に向かって歩く二人。
ふと、灯りの着いた教室が目に入った。美術室だ。
真理が呆れたように喋った。
「ムンク、また展覧会に出品する絵でも描いてるんだね。
いつもの暗いやつ。
でも、今まで学校にいたんなら、何か知ってるかも?」
夏美と真理は美術室に向かった。

ムンクというのは美術教師藤坪のあだ名だ。
展覧会や文化祭で見るからに不気味な絵を出品していて、藤坪自身も
物陰から女生徒をやらしい目でを眺めたりしていて、そこからムンクのあだ名が付いていた。
生徒達は、皆、影では藤坪をムンクと呼んだ。

「藤坪先生、いるんですか?」
真理が声をかけた。
応答が無い。
夏美と真理は、恐る恐る美術室に入る。誰もいない。
準備室のドアを開けた。そこにも、ムンクの姿は無い。

「きっとトイレに行ってるんだよ。もう、帰ろう。」
夏美が、真理に怯えながら話しかけた。
真理は、構わずに準備室に入って行った。

中央に、描きかけらしい大きなキャンバス。
「わっ!大きな絵を描いてるんだ。きっと、またオカルトチックなやつだよ。」
その絵を覗き込む二人。
夏美が声を上げた。
「こ、これは、私!!」

「なぜ、ムンクが夏美の肖像画を描いてるの!?
いつ、モデルになったの!?」
夏美は、首を振った。
「おかしいよ!絶対、おかしいよ!」
真理が興奮しながら、他の絵も調べる。
次々と、夏美をモデルにしたと分かる絵が出てくる。
「他にも、何かあるかも?」
戸棚を開けると、何かがドサドサと落ちてきた。
夏美を隠し撮りした写真。
靴、体操服、鉛筆、ノート・・・。
夏美は、震えながら呟いた。
「全部、私が無くした物・・・。」

「お前達!俺の秘密を見たな !!」
振り向くと、鬼のような形相のムンクが立っていた。

「ずっと好きだったんだよ、阿部・・・、いや夏美。」
ムンクは、鼻息を荒くして夏美に迫った。
「夏美に変なことしないで!」
前に立ちふさがった真理をムンクは力任せに突き飛ばした。
真理は、床に頭をぶつけて気を失った。
「真理!!」

怯える夏美の両肩を掴み、ムンクは夏美を抱きしめようとする。
「や、やめて下さい。」
「教師と生徒が結婚するなんて、珍しい話じゃないだろ?
なっ、夏美。俺が、お前を幸せにしてやるからな。」
「い、いや・・・。誰か、助けて!!」

「藤坪先生!!何をしてるんですか!!」
いつの間にか部屋の入り口に、夏美の担任教師中沢が立っていた。
その後ろから安田がひょいと現れた。
「遅くなってゴメン!」

「中沢先生!安田君!」
夏美は、ムンクの腕を振り払い、倒れている真理に駆け寄った。

中沢は、落ち着いた口調で話す。
「藤坪先生、こういう不祥事が発覚した以上、教師としてどう責任を取るか?
それは、あなたにお任せします。さあ、みんな、ここを出ましょう。」
中沢に促され美術室を後にする四人。
俯いて、その場に立ちつくすムンク。

中沢は、まだ大学を卒業して間がない若い教師だ。
誰もが嫌がる学級担任を自分から志願するほどの熱血教師で生徒にも姉のように慕われている。

校門に向かうグラウンドを四人は歩いている。
「俺が、慌てて学校へ向かってると、ちょうど中沢先生に会ったんだよ。
で、思い切って事情を話すと一緒に行ってくれることになったんだ。」
興奮気味に話す安田に「安田君、来るの遅すぎ!夏美、危なかったんだから!」と怒る真理。
「まー、犯人も見つかり一件落着ということで!」と調子のいい安田。
「何事も無かったから良いようなものの、これからは危ないことはしないでね。」
やんわり釘を刺す中沢。

学校の前に出ると中沢が三人を見ながら話した。
「私は、阿部さんを送って行くから。御両親にお話も有るし。」
「じゃあ、私は、安田君に送って貰います!夏美、明日学校でね!」
真理と安田は、にこやかに手を振り去っていった。

暗い夜道を並んで歩く夏美と中沢。
「安田君に聞いたけど、阿部さんも大変だったわね。」
中沢が夏美を労るように話しかけた。
「いいえ。もう、いいんです。私にも隙があったんだと思います。」
「でも、鞄に生ゴミを入れるなんて酷すぎるわよね。」
その言葉を聞いて、夏美は立ち止まり顔をこわばらせた。
「私・・・、そのこと誰にも言ってない。」
前を歩いていた中沢も立ち止まり夏美と向かい合った。
その顔から笑顔が消えていた。
「もう、ばれてしまったわね。これからなのに・・・。」
夏美は、まだ信じられないと言う様子。
「なぜ、中沢先生が私に、そんな酷いことをするんですか?」
「阿部さん、あなた、私の名前を知ってる?」
「中沢夏美・・・、私と同じ夏美。」
「そうよ、あなたのお父さんが付けた名前。」
「ええっ!?それは、どういうことですか!?」

中沢は、話し続ける。暗い夜道の二人。
「あなたのお父さんと私の母は、若い頃に同棲していたの。
どんな理由があったのかは知らないけど二人は別れた。
その時、母は私を身籠もっていて、一人で私を生んだ。
そして、あなたのお父さんが戯れに自分の娘が生まれたら付けたい名前だと言っていた
夏美という名前を私に付けた。
それから母は、女一人で私を育ててくれた。
あなたのお父さんには頼らず一人で。」
「お父さんは知らなかったんですか?」
「そう、母は知らせなかった。
私が生まれたときには、あなたのお父さんは同じ職場に勤めるあなたのお母さんと結婚してたから・・・・。
私は、暗い部屋ですすり泣く母の姿を何度も見た。
苦労に苦労を重ねて母は死んでしまった。
私は、あなた達家族を許せなかった。」

夏美は、黙って聴いている。淡々と話す中沢。
「 私は、大学を卒業すると教師になった。
新入生の中にあなたを見つけた私に、子供の頃からの憎悪が蘇った。
チャンスを伺っていた私が、安田君のアパートから出て来るあなたを見かけたとき、今しかないと思った。
あなたを精神的に痛めつけて自殺に追い込む。
そうなれば、あなたの家族も苦しむことになる。
母の復讐が出来る。」
「そんなことをしても先生のお母さんが喜んだりしない!
先生も幸せになれない!」
夏美は、悲しそうに叫んだ。
「そう、私にも分かっている。でも、そうすることしか出来ない。」
中沢の手が夏美の首にかかり締め付ける。
「こうなっては、今、あなたを殺すしかない。
あなたが死ねば、あなたの家族に復讐できる。
お父さんが名付けた夏美は、私だけになれる。」
中沢の手に力がこもった。

「夏美を殺すのは俺だー!!」
振り向くとナイフを構えたムンクが立っていた。
「夏美を殺して俺も死ぬんだー!!」
ナイフを光らせながら突進してくるムンク。
「キャー!!」夏美の叫び声。

ナイフは中沢の背中に刺さっていた。
反射的に中沢が夏美の盾になっていた。
その場に倒れる中沢。抱きかかえる夏美。
「中沢先生、どうして?」
「分からない・・・?、自分でも分からない・・・?」
誰かが通報したのかパトカーの音が近付く。
側でうずくまるムンク。

警察で事情徴収を受けて父と帰る夏美。
「私の若い頃の悪さが原因で、夏美には辛い思いをさせたね。
すまなかった・・・。」
謝る父に夏美は労るように話す。
「もういいよ。昔の事だもん。でも、ひとつだけお願いがあるの。」
「何だ夏美?」
「これから中沢先生の力になってあげてほしいの。ね、お父さん。」
「ああ。夏美、お前が優しい子に育ってくれて私は嬉しいよ。」
空には、綺麗な月が浮かんでいた。

数ヶ月後・・・。
母親の墓参りに訪れた中沢。
すでに誰かが参った後だった。
奉られている花を無言で見つめる中沢。

それから、さらに数ヶ月後。
吹奏楽部の演奏会会場。
高校三年生になった夏美にとって、それが引退コンサートである。
それを最後に受験勉強に専念する生活が始まる。
せわしなく動き回る生徒達。
夏美も汗をかきながら荷物を運んでいる。
舞台の袖で声を掛けられた。
「阿部さん。」
振り向く夏美が声をあげる。
「中沢先生!!」

中沢は、パリッとしたスーツ姿で立っていた。
「阿部さん、元気だった?」
「中沢先生!私、先生が学校を辞めていなくなって心配してたんです。」
「今、私は、東京の小さな会社で事務員をしてるわ。」
「そうなんですか!」
「それでね、私、名前も変えたの。改名したのよ。
優子・・・、中沢優子。あなたのお父さんが協力してくれたの。」
「そうですか、父が・・・。」
夏美は嬉しそうに中沢を見つめる。
中沢は、思い切ったように話し出す。
「あの時・・・、あなたがナイフに刺されそうになった時、
私は無意識にあなたを庇っていた・・・。
あれは、多分、私の身体に流れるあなたと同じ血がさせたことだと思う・・・。
どんなに憎んでも憎んでも、姉妹は姉妹だから・・・。」
黙って聞いている夏美に、中沢は真剣に話す。
「虫のいい話だと思うけど、阿部さん・・・、いいえ、夏美ちゃん。
私、あなたの姉になれるかな?」

そのとき、舞台から後輩の真紀が声を掛けた。
「夏美先輩、もう始まっちゃいますよー!」
夏美は、「はーい!今、行く!」と声を掛けて舞台に向かって駆け出した。
そして、中沢の方に振り返り思い切りの笑顔で叫んだ。
「いってきます、お姉さん!!」

夏美は光の中に吸い込まれていった。



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