口だけ女



僕は、暗い夜道を歩いていた。
寒い冬の帰り道。
誰かに肩を叩かれた。
ビクッとして振り返ると誰も居ない。
恐ろしくなって、僕は、早足でアパートに帰った。

上着をベッドに脱ぎ捨てて、タバコに火を点けた。
「ゴホン、ゴホン。」
誰かが咳をした。誰も居ないはずなのに!?
辺りを見回して、僕は、危うく大声を出しそうになった。
口だ!空中に口が浮かんでいる!

恐る恐る近付いて観察してみると、女の口に見える。
さっきの咳も、この口から発せられたのだろう。

なぜ口だけなんだ?身体は、無いのか?

考えていても始まらない。
僕は、コンビニで買った弁当を食べ始めた。
口だけ女は、近付いてきた。
これを食べたいのか?
箸で摘んで食べ物を近づけると口を開けて食べた。
モグモグと美味しそうに食べている。
なんだか楽しい気持ちになってきた。
僕は、口だけ女と、替わりばんこに御飯を食べた。

「ありがとう。」
口だけ女が、喋った。

「君は喋れるのか!」
「はい。喋れます。」
「なぜ、君は口だけしか無いんだ?なぜ、僕の所に居るんだ?」
「それには、お答え出来ません。私が、側に居ては迷惑ですか?」
「いや、別に困ることは無いけど・・・。でも、変な感じだ。」

それから、僕と口だけ女の共同生活が始まった。

「いってきます。」
「いってらっしゃい。」

「ただいま。」
「おかえりなさい。」

口だけ女は、口しか無いから、僕が御飯を食べさせてやった。
僕が、つまらない冗談を言っても、楽しそうに笑ってくれた。
奇妙だけど楽しい毎日だった。

僕は、とっくに気付いていた。
口だけ女は、口しか無いのに、僕の話に受け答えしている。
僕には、見えてないだけで耳も目もあるのではないのか?
でも、そんなことは、どうでも良かった。
僕は、口しかない彼女が好きになってしまったから。

ある日、口だけ女が、僕に言った。
「あなたは、一緒に暮らしたいと思うほど好きな人が居ましたね。」
「えっ!なぜ、それを知ってるんだ?」
「その人が、例え事故で醜い姿に変貌しても愛し続ける自信がありましたね。」
「あったよ。でも、想いは叶わなかったよ。どこかに消えてしまったよ。」

人が人を好きになった想いは、何処に消えてしまうのだろうか?

僕と口だけ女の生活は、今も続いている。
「なあ、もしも僕が死んでしまったら君は、どうするんだ?」
「私は、あなたの棺に一緒に入ります。あなたと一緒に焼かれます。」

僕は、心を込めて、口だけ女に口づけをした。



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