二人は、ラブラブ!


父は昭和3年生まれ、母は、昭和13年生まれで、10歳年が離れた夫婦である。
どちらも別の人との恋愛が終わったタイミングで知り合い、母の方が父に一目惚れをして
交際を申し込み付き合い始めたらしい。
新たに仕事を始めて、まだ食べていけるか分からない時に、母が手荷物だけ持って
父のところにやってきたらしい。

新婚時代、映画館で怪獣映画の「モスラ」が上映されることになった。
母は、勢い込んで「○○さん!スモラ来た!」と父に報告したらしい。
(母は、後年も、助六寿司を六助と言って父を笑わせていた。)

クズ鉄等を買い取る仕事をしていたのだが、子供が売りに来た時に母を「オバチャン」と
呼んだらしい。すると、母は「オバチャン違う!お姉さんと言え!」と怒ったらしい。

タバコ屋で間借りをしていたのだが、近所で2階建ての借家が空いたので、そこへ夫婦で引越し、
その家で、僕達5人兄妹は、全員、産婆さんに取り上げられて生まれた。

寝るときは、部屋中に布団を並べていたのだが、父は、ふざけて母に柔道の技をかけて
投げ飛ばしていた。
産後太りで豆タンクみたいになっていた母が「お父さん!」と叫びながら「ボテッ!」と
倒れるので父は、その技を「ボテ投げ」と名付けた。

父と母は、頻繁に激しい夫婦喧嘩をしていた。
ほとんど父が怒鳴り散らし、物を投げて、母が叫ぶ形だったが、その都度、
僕達兄弟は、2階に逃げた。
普通は、父親が母親に「出て行け!」と言うと思うのだが、母には身寄りが無かったので
いつも父の方が家を出て行き、土曜日なら、オールナイトの映画館、平日なら車の中で過ごし
朝、僕等が起きる時間には、まるで何事も無かったように父も母も、ニコニコしていたのだ。
あれは、今思えば、一種のプレイだったのではないか?と思う。
父は、「お母ちゃん、オシッコちびるー、言うんやで!」と言い、母が、恥ずかしそうに「お父さん!」と
たしなめていたのだが、あれも母の性癖を子供にばらしていたのではないか?と思う。
子供の頃には、単純に二人は仲が悪いと思い込んでいて、父が、戯れに「欲しい物あるか?と
僕に聞いた事があったらしい。
僕は、「何もイランから、お父ちゃんとお母ちゃん、喧嘩せんといて!」と答えたらしい。
(僕も、子供の頃は、いい子だったのだ。)

僕が、中学生の時、なんと父の2番目の嫁さんが家に遊びに来た。(母は、3番目の嫁さんだ。)
僕を見て「○○さんの若い時にそっくりで男前やわ!」としきりに褒めた。
父、母とその人は、和やかに談笑をして、父も、「親戚みたいなもんやから、また、遊びにおいでよ!」と
送り出し、見送りに出た。
後片付けを始めた母が、一転して、ブツブツ言いながらヒステリーを起こした。
僕が、「うるさいなー!」となじると「あんた男前言われたから味方するんや!」と当り散らされた。
(この時、家に居た子供は、僕一人だったと記憶していたのだが、母の通夜の時、この話をすると
1番目と2番目の妹も、その時、居た事が判明した。子供達は、動向を見守っていたのだ。)

僕は、高校を卒業して大阪で10年近く働いたのだが、実家に帰ったのは、盆と正月だけだった。
帰るたびに、父母は、見る見る老けていった。
僕は、身体を壊したりして28歳の時に淡路島にUターンをした。
まだ車の免許を持っていなかったので会社の近所で一戸建ての借家を借りて一人で住んだ。
景気が悪くて父は店を閉じ、働きに出ていたのだが、高齢でうまくいっていなくて落ち込んでいた。
そんな時、父母とスーパーへ買い物に行った。
父が、突然居なくなり、母は、「いやー!お父さん、おらんわ!お父さん、何処?」とパニックになった。
タバコを買いに行っていただけなのに、まるで幼子のように父を探していた。
父と母は、すっかり老夫婦になっていたのだ。

僕の婚期が遅いので、父母と出雲大社に縁結びの願掛けに行くツアーに参加したことがある。
ワインを試飲出来る所に立ち寄った時、アルコールに弱い父が、匂いだけでフラフラになった。
母は、人目もはばからずに父と腕を組んで支えていた。
車の中で皆、カラオケを歌いだした。歌唱力に自信のある母は、早く歌いたそうにしていたが
父は、他の人の世話をしていて、なかなか母に歌わせなかった。
母は、「何で私に歌わしてくれらんの!?」とヒステリーを起こした。
父は、「順番があるんじゃ!ややこしいこと言よったら窓から放り出すぞ!」と激怒した。
父も母も、夫婦二人になると子供みたいで僕は、驚いた。
母は、人前で喋る時に、素っ頓狂な声を出したり、大ボケをかましたりして父を爆笑させていた。
家でも妙にイチャイチャするので、まだ実家に住んでいた大人しい末の妹が「えーかげんにせえ!」と
怒鳴ったくらいだった。

俳優の田中邦衛さんが、実家の近くで映画のロケをやっていた。
母は、それを見物に行っていたのだが、休憩中に邦衛さんから「一緒に写真を撮りませんか?」と
声をかけられたらしい。
母は、「お父さんに怒られるから止めとくわ!」と答えて帰って来たらしい。
父が、芸能人を相手にチャラチャラするのを嫌っていたためだ。
「北の国から」マニアの僕と末の妹は、それを聞いて、「もったいない!」と残念がった。

母は、俳優の津川雅彦さんのファンだったのだが、津川さんがテレビに出てくると嬉しそうに
「雅彦ちゃん!」と言っていたらしい。
「雅彦ちゃん言うたら、お父さん、ヤキモチやいて怒るねん!」と楽しそうに言っていた。

実家に帰った時、父が、「Xファイルのビデオあるんや!」と言って、2階に上がって紙袋に一杯のビデオテープを
持って降りてきた。
中古店でセット売りしていた物を買っていたらしい。
僕が、昔から、ああいう系統のドラマや映画が好きな事を知っているので持って来てくれたと思うのだが
当時、既に手持ちのビデオテープは処分して、DVDに移行していた時代だったので
「ビデオ見らんよって、いらんわ!」とすげなく断った。
父は、しょんぼりと、また紙袋を抱えて2階に上がっていった。
その時、母が、「せっかくお父さん、2階から持って来てくれたのに、いらんでも、もらったったらエエのに!」と
珍しく僕に怒った。

やがて母は、闘病生活に入り、入退院を繰り返すようになる。
父は、専門書を買い込んだり、カロリー計算をしたりして母を支えた。
そして、僕にしょっちゅう「ワシが死んだら、お母ちゃん頼むぞ!」と言った。

実家に一人残っていた末の妹も結婚をして家を出て、夫婦二人だけの生活になった。
父と母は、トイレと風呂以外は、常に一緒に居た。
また新婚時代に戻ったみたいだった。
が、それから、間も無く、母は、肝硬変になってしまう。
もう長く生きられない事が決定的になってしまった。
父は、もう助からない事は母に隠して、毎日、病院に通った。

母の死んだ日、明らかに父は、おかしかった。
医者が、「だいぶ弱ってきたな。」と言っても、「医者は、ああ言うね。良うなった言うて悪なったら責められるからな。」と
信じようとせずに、変なテンションで喋り続けるのだった。
僕の目から見ても母は、いつ息を引き取るか分からない状態なのに、父は、「ちょっと出てくる。」と言って
病室から出て行った。
その数分後、母は、僕に手を握られ息を引き取った。
献身的に看病していた父ではなく、僕が、看取ったのだ。
後に父は、「死ぬ前に目を開けて見たやゆうて、ワシやったら耐えられらん!」と語った。
あの病室から出て行ったのは、50年以上連れ添った10歳年下の妻の臨終の場面に耐えられなかったからでは無いか?

母の通夜の時、控え室で仮眠をしていた父が真夜中に起きて外へ出て行方不明になった。
目が悪くて、夜に車の運転をしたら免許を取り上げると言われていたのに・・・。
それも、その状況に耐えられなくて家に帰って一人で泣いていたらしいのだ。

葬式の時、父は、何かに取り付かれたように母の死顔を写真に撮っていた。
「生きとった時より、ベッピンさんやな!」と言いながら・・・。

母の遺骨は、家に持ち帰らずに寺で追善法要をしてもらい、個人の墓を建てずに合祀墓で永代供養を
してもらうことになった。
父が決めたのだが、自分も死んだら同じ合祀墓に入るつもりでいるらしい。
父なりに考え抜いた結果だったようだ。
母の死後、目に見えて憔悴している父に、僕達、兄弟は、何も言えなかった。

僕は、特別、母に可愛がられた記憶がある。
それは、外見が、父にそっくりだからだと思うのだ。
母が、父を慕う気持ちは、半端じゃなかった。
養女として生みの親を知らずに育ち、育ての親も若くして亡くした母。
天涯孤独な母にとって、父は、掛け替えのない存在だったのだろう。

僕は、二人の子供として、いろいろな場面を目撃してきた。
二人は、世界一仲の良い、似合いの夫婦だった。
僕が死んだ時も、遺骨は、同じ合祀墓に収めて欲しい。
そして、生まれ変わったら、また二人の子供に生まれたい。
近くで、おもろい夫婦を見るために・・・。



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