海より深し



僕が生まれた時、自分で言うのも何だけど、あまりにも可愛いので
母は僕を連れ歩いて自慢していたらしい。
多分、一番古い母との記憶だと思うのだが僕は母に手を引かれて
スーパーの近所にあるうどん屋に入った。
そこで母が注文した一杯のうどんを小さなお椀に分けてもらって食べた事がある。
そのうどんが強烈に美味しかった覚えがある。
あれは何だったのか?現実だったのか?夢だったのか?
今も不思議な気持ちになる。

僕の生まれた街では、祭りの時、子供がロープで引っ張る子供檀尻が出て
休憩地点でジュースが出されたりした。
皆、我も我もと手を伸ばし、ジュースを貰っていたのだが、僕は、それが出来なかった。
うつむいて棒立ちになっていると母が人ごみをかき分けて突撃してくるのだ。
そして「ヤッちゃんにもやってー!」と絶叫するのだった。

僕は、小学生の時、鼓笛隊に入って小太鼓を叩いていた。
恒例行事として演奏しながら街をパレードしていた。
そのスタート地点が僕の家の近所だった。
母は、生まれたばかりの3番目の妹を背中に背負って見に来た。
おんぶ紐で胸のところが十字になって乳が強調されるスタイルになっていた。
性に目覚め始めた同級生の男共が、やらしい目で母の胸を見ていた。
母は、僕に近寄って「ヤッちゃん!」と声をかけた。
僕は、ふてくされたように無視をした。


僕等の子供時代には検便というのがあった。
腹の中に回虫がいないか学校に大便を持って行って検査をするのだ。
その都度、僕は新聞紙の上に大便をして後は、母任せだった。
母は、その大便を箸で少量取り小さなマッチ箱に入れて紐で結んで
酔っぱらいが持ち帰るお土産みたいな形にしてくれていた。

僕達子供は、お菓子を食べてもゴミをそこらじゅうに捨てていた。
それを母は無言で拾っていた。
着る服もパンツからシャツから毎朝、母に出してもらっていた。

僕の実家は、台所が下駄を履いて降りる土間になっていた。
当然、暖房など無く外と同じくらい寒かった。
子供たちが大きくなるとコタツを占領して母が座れなくなった。
食事の時も、母は料理を運び、自分は土間で立ったまま食べていた。
いつも冬になると、母の手は、真っ赤っかだった。
淡路島に珍しく雪が降り積もった朝、その寒い台所に降りていくと流し場の横に
雪で作ったウサギが置かれていた。
あの寒い中、母は、子供が喜ぶと思って早起きをして作っていたのだ。

土曜日で給食の無い日には、大抵昼飯はインスタントラーメンだった。
つねに数種類買い置きがあって「出前一丁にするかワンタンメンにするか?」などと
聞かれた。
出てきたラーメンには、いつもモヤシやらキャベツやら卵やらハムやらが入っていた。
当時、内職の掛け持ちと子育てで忙しかったのに、ひと手間かけてくれた。
自分は、子供達が残した残飯みたいな物を食べていた。
それから、夏になると、よくプリンやシャービックを作ってくれた。
それも子供達に食べさせるためで、自分で食べているのを見たことが無かった。

大阪からUターンをして淡路島に戻った僕は、会社の近所で一軒家を借りた。
何かの用事で僕の留守中に母が、その家に一人で来た。
合鍵で家に入っていたのだが、僕が外から帰ると玄関の板の間に正座をして待っていた。
一体、どれだけ座っていたのか?
「部屋に入っとったらええのに!」と言うと「親子でも礼儀をわきまえんとな!」と言って
笑った。

誕生日にバースディケーキを買ってくれて、店員がチョコレートで僕の名前を書いてくれた。
僕の歳を聞かれて母が正直に答えると、僕を子供だと思っていたらしい店員は、
「えっ!」と声を出して、大げさに驚いたらしい。
それから、誕生日には、ロールケーキを買ってくれるようになった。
バレンタインディには、「ヤッちゃん、誰にもチョコレート貰えらんで可哀想や。」と言いながら
毎年、チョコレートをくれた。

僕は、テレビゲームにハマっていた時、ゲーム機を実家に持ち込んで
父が不在の時にテレビを占領した。
パズルゲームをやっていたのだが、猛スピードで落ちてくるのを次々クリアした。
母は、全然興味なさそうだったが「ここまで進んだん初めてや!」と自慢すると
「良かったなー!」と喜んでくれた。
あれは、母が見ていたから調子が上がったのだ。

母は、10年近く闘病生活を送っていたのだが辛そうな顔を僕に見せなかった。
入院と退院を繰り返し、口や肛門からの内視鏡検査やら食事制限やら
肉体的にも精神的にもかなりキツイ生活を送っていた。
一日三回飲む薬の量も大量でそれを数ブロックに区切られたトレイに入れて小分けしていた。
僕が、「そんだけ飲むの?」と驚いて言うと「ど・れ・に・し・よ・う・か・な?」と
全部同じ物なのに順番に指を指して、おどけてみせた。

母は、子供の時から変わらず、僕を「ヤッちゃん」と呼んだ。
たまにふざけて「ヤチ坊」と呼んだ。
それは、僕が小さい時、自分の名前がうまく言えなくて「ヤチシ」と言っていたから
「ヤチ坊」と呼ばれていたからだ。
僕が50歳を過ぎても変わらなかった。
妹の事は、全員、呼び捨てにしていたのに、僕は、呼び捨てにされたことが無い。
「ヤッちゃん」であり「ヤチ坊」だったのだ。

母が死んでから、やたらと昔の事が蘇ってくる。
「お母ちゃん、面白い人やったなー!
意外と料理も上手やったなー!味付け、最高やったで!
それに何より、子供に無償の愛を注いでくれたな!
全然、見返りを求めてなかったよな!
僕は、お母ちゃんの子供で良かった!ラッキーやったで!」

未来永劫、お母ちゃんは僕のお母ちゃんであり、僕は、お母ちゃんの子供である。



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