母の事


1999年10月3日、SATY(今のイオン淡路店)の駐車場で母が顔面から転び、
大怪我をした。
それから、健康で怪我もしなかった母に試練が降りかかり始めた。
翌年の2000年4月4日、健康で元気だった母が、突然、夜中にバケツ一杯の血を吐いた。
食道静脈瘤破裂という病気だった。
当時、母と一緒に住んでいた妹の機転で直ぐに病院へ運び、一命を取り留めた。
(父は、当時、中学校の用務員をしていて、泊まり込みで不在だった。)

その後、糖尿病になり、治療が始まり頻繁に入退院を繰り返すようになる。
夜中に敗血症を起こし意識が無くなり救急車で運ばれたりもした。

糖尿病の治療は続いていたのだが、ついには、肝硬変になってしまった。
酒は、一滴も飲んでいないので非アルコール性ということだった。
今年、2014年の初めに、インフルエンザにかかり、肝臓が大ダメージを受けて
病状が急激に悪化した。
それから、お腹に水が溜まり出し、水を抜くために入退院を繰り返し、
その間隔が、だんだん短くなっていった。
お腹に溜まった水が片方の肺を押し潰し、肝臓も完全にダメになった。
横隔膜に管を通す手術をしたのだが、その管からバイ菌が入り、
結局、その管も外してしまった。

2014年7月から入院していたのだが、父の配慮から見舞いに行かなかった。
それは、自分の母親(僕の祖母)が入院していた時に見舞いに行き、あまりにも変わり果てた姿が
目に焼きついて、今でも、時々、蘇るからだった。
その頃は、また、直ぐに退院すると皆、思っていたのだ。
しかし、それから、死ぬまで退院する事は無かった。

電話は出来るという事で、父は、自分の携帯電話を母に渡した。
「お母ちゃんに携帯電話、持たせとるから励ましの電話かけたって!」と父に言われたが
どうせ、直ぐに退院すると思って僕からかけなかった。

10月5日11:16、母から電話が掛かってきた。
「電話くれると思て待っちょったのに寂しいやんか!」と言う。
母が、一方的に喋り、僕は、「うん。」ぐらいしか言わなかった。
「小さい時に貧乏させたからな。また、お金やろよ。」と言う。
多分、病室で昔の事を思い出したのだろう。
学生時代、僕は、弁当のおかずが少ないと同級生に笑われた。
その事で、僕は、母をなじった。
母は、「ごめんよー!」と言いながら泣いた。
当時、妹達も小さかったし、父の仕事もうまくいかなくて母は、内職を掛け持ちでやっていたのだ。
大人になってから、一緒に買い物に行って、お金を出してくれた時も「子供違うんやから
僕が、恥かくやんか!」と人前で罵声を浴びせた。
車を買う時も「お母ちゃん、半分出したるわ。」と言われ、それも「恥かくやんか!」となじった。
結局、お金は、貰った。
それから、長い失業中も、母がお金をくれた。
その、どんな時も「ありがとう。」の一言さえ言わずに「うん。」とだけ言って受け取っていた。

母は、よく僕の事を「この子は、反抗期無かった。」と言っていた。
が、そんな事は無かった。妹も同時に反抗期になり、僕も、調子に乗って母を「ババア!」と呼んだ。
すると、母は、「ヤッちゃんにババア言われた。」と言って声を上げて泣いたのだ。
異常なくらい記憶力の良い母が忘れたとは思えない。
忘れたふりをしてくれていたに違いないのだ。

それからも、僕の方から、電話をかけなかった。
10月12日15:37、また、母の方から、電話がかかってきた。
「退院したら、美味しいもの作ったろよ。肉がええか?すき焼きがええか?」と言う。
「お母ちゃんの食べられるものでええよ!」とぶっきらぼうに返事する。
毎年、母の誕生日には、現金1000円を渡していた。
「1000円もらうの楽しみにしてます。」と言われた。たった1000円だ。
お金じゃなくて、見舞いに来て欲しかったのでは無いか?
それが、母と、まともに話した最後になった。

さすがに、僕からも電話をした方が良いと思い、10月19日14:59にかけたが通じない。
具合が悪くなって集中治療室に入っていたのだ。

それから、一旦、持ち直し、流石に見舞いに行かないとヤバイと思い、父に頼んで
病室に連れて行ってもらった。11月9日だった。
会うのは実家に帰った7月13日以来だったのだが、短期間で急激にやつれていた。
僕は、一言も、声が出なかった。
「今回は、3000円にしとくわな。」と見せて、父にお金を渡した。
もう体も動かなくて小さい声しか出なかったのに「また来てね!」と言われた。
僕は、「うん。」と答えた。
母には、治ると言っていたらしいが、もう治らないことは、母、本人は気付いていた感じなのだ。
それでも、「退院したら子供等呼んでパーティすんね!」と言っていたらしい。

それから、直ぐに危篤状態になり、14日に亡くなった。
あの亡くなり方を思うと、どうしても僕が来るのを待っていたとしか思えない。
「また来てね。」「うん。」と約束をしたからだ。
それと最愛のお父ちゃんじゃなくて僕に看取らせたのは、父が居ると僕が遠慮して
何も言わないのを知っていたからでは無いか?
父は、冗談めかして「お前と結婚して良かったわ。また生まれ変わっても一緒になってくれるか?」と
言っていたらしい。
(「うん。」と答えたらしい。)
が、僕は、「ありがとう。」すら言ってなかった。
僕が後悔しないように配慮してくれたのではないか?

母の死後、内緒で貯めていたらしいお金が出て来た。
それで、葬儀にかかったお金が全額まかなえた。
夫婦の年金だけで生活していたのに、あれだけのお金を貯めていたのに父も驚いていた。
お金の入っていた封筒は、茶色く変色していたらしい。
いったい何年かかって貯めたのだろうか?
僕は、家が貧乏な事が嫌で嫌で仕方なくて、高校を卒業すると逃げるように家から飛び出した。
実際には、母の方が子供に貧乏をさせた事を辛く思っていたのでは無いか?

それと臨終の時に必死に生きようと苦しんでいた母・・・。
その姿も、直ぐに挫折してしまう僕に見せたかったのでは無いか?
苦しんでいるのではなく、頑張っている姿を!
運動会の時、走る僕に大声で声援する母の声が聞こえる。
「ヤッちゃん、頑張れー!」




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