母の死


2014年11月14日(金)、妙に胸騒ぎがして夜中の3:00に目が覚めて眠れなくなった。
6:07、携帯電話に父から電話が入る。
「病院から、お母ちゃん危篤や言うて電話が入った。亡くなったら電話するから携帯電話持っとけ!」
ザワザワした気持ちのまま仕事に行く準備を始めるが、このまま仕事に行ってはいけない気になった。
6:29に父の携帯電話に電話して仕事を休んで、病院へ行くと告げる。
会社に電話を入れるが、通じない。そこで、直に会社へ行き事情を説明して病院へ向かう。

8:00前に病室に到着。
父が母のベッドの傍に座っていて、鉄の枠に頭を付けて目をつむっていた。
「お父ちゃん!」と声をかけると目を開けて「おー、来たか!」と答え、
「おっ母!兄(にい)、来てくれたで!」と母に話しかけた。
父が、話しかけても反応が無く、母は、下顎を動かして、その都度「うー。」と声を出しながら呼吸していて、
両手を赤ちゃんのように顔の横に出し、時々、身体を痙攣させていた。
鼻や身体にチューブが付けられ、心電図モニタが置かれていた。
それは、ネットで検索した、肝硬変の最後の姿、そのままだった。

「昨日は、息もハッハッ言うて、苦しそうやったんや。それで、水は、誤飲するからゼリーを含ましたったら
今みたいに、ましになったんや。」と自慢そうに言う。
「今日から夜は、横に簡易ベッド置いて一緒に寝てもエエ言われたわ。
家で心配しとるより、その方がエエわ!」とも言った。

主治医の先生が見に来て、「だいぶ、弱って来たな。」とつぶやいた。
主治医が去ってから「医者は、ああ言うね。良うなった言うて悪なったら責められるからな。
ワシは、昨日よりも、よーなったと思うんやけどな。」と父は、言った。
何も食べずに来たと言うと売店でサンドイッチとコーヒーを買って来てくれて交代で休憩室に行き食べる。
父は、昏睡状態で反応のない母に、ずっと話しかけていたが、僕は、痛ましい母の姿を見ただけで
一言の言葉も出せなかった。
父と椅子を並べて、ベッドの傍に座り母を見守る。

10:00前ぐらいに父が突然、「まだ大丈夫そうやから、ちょっと出てくるわ。お前も、一旦、帰るか?」と
立ち上がった。
「なぜ、今、出て行く?」と思ったので「僕は、残るわ。」と答え、一人、母に付き添う。
やはり、声も掛けられずに、椅子に座ったまま無言で母の顔を見つめていた。

ずっと昏睡状態で、目も開けられず、声も出せなかった母。
父が出て行って、直ぐだった。
突然、左目だけ、パチリと開けて、僕を見た!
黒目が上に上がった昏睡三白眼という状態の目だった。
「お母ちゃん、来とるで!」と話しかけると舌を動かして何かを言いかけた。
その途端、また目を閉じて苦しそうに眉間にシワを寄せて大きく息をして、呼吸が止まった!
心電図モニタの上の数字が、0になっている!
僕は、病室の前のナースステーションに走り「様子がおかしいんです!」と叫ぶ!
病室に戻り、母の手を握る!
心電図モニタの下の数字もだんだんと下がってきた。
看護師さんが、声かけをして電気ショックを与えると、「クァー」と苦しそうに声を出し
心電図モニタの下の数字だけ少し上がる。
「お父さん、呼ぼか?呼ぼな!」と言われ「はい!」と答え、母の手を握り続け、左の肩をポンポン叩きながら
「お母ちゃん、頑張れ!お母ちゃん、頑張れ!」と声を掛ける。
看護師さんも「もうすぐ、お父さん来るで!頑張ろな!」と声をかけてくれる。
しかし、電気ショックで上がる数字もだんだん低くなっていく。
「お母ちゃんが死ぬ!」と思うと涙が止まらなくなる。
「お父ちゃんとお母ちゃん、ほんまに仲がいいんですよ!今でも、同じ布団で寝て、
いつも一緒なんですよ!」と看護師さんに話す。
看護師さんも、「そう。ほんまに仲が良いんやね。大好きなお父さん、もうじき来るよ。
もうちょっと頑張ろな!」と声を掛けてくれる。
でも、電気ショックで上がる数字も、だんだん低くなり、やがて、完全に0になった。
「お父さん来るまで、このままにしとこな。」と看護師さんが病室を出て行った。

病室には、母と僕の二人だけになった。
僕は、母の小さな冷たい手を握り続けた。
そして、今まで恥ずかしくて言えなかった事を話し続けた。
「お母ちゃん、今まで、美味しいもの一杯作ってくれて、ありがとう!
ほんま、美味しかったで。食堂で何食べても、お母ちゃんの作ったもんの方が美味いね。
お母ちゃんの作るオムライス、美味かったわ。焼き飯も、美味かったわ。
ほんまに、お母ちゃん、ありがとう。
生まれ変わっても、また、僕を生んでよ。」
父が来るまでの約30分ぐらいだったが、言おうと思っていて言えなかった事を全部言えた。

やがて、父が、到着した。
「あかんだか・・・。」と呟いて、がっくりうな垂れた。
看護師さんが来て死亡確認をして、10:48臨終ということになった。76歳だった。
体を拭くということで部屋から出て、父と休憩室へ。
父は、お寺に行っていたらしい。そこで、病院から電話がかかり戻ってきたらしい。
僕は、母の最後の様子を話した。
突然、目を開けて、何かを言おうとしたこと。
最後まで、必死に生きようとしていたこと。
「僕に、何を言おうとしとったんかな?」と父に言うと「ありがとうやろ。」と言われる。
母の最後の言葉は、僕に「ありがとう」・・・。
僕の方こそ、ありがとうや!と思うと、もう涙が止まらなかった。
父は、淡々と葬儀屋や寺の手配をしている。

準備が整い、葬儀屋が、母の遺体を運び出す。
僕は、父の車の後に付いて、葬儀屋に向かう。
喪主は、名前だけ僕という事になり、実際に取り仕切ったのは父だ。
7:00からの通夜までに喪服を取りに一旦帰る。

それから、葬儀屋へ戻ろうとするが、道に迷ってしまい、細い路地や農道に迷い込む。
長時間、迷路の中を彷徨うみたいになっていたが見覚えのある家に辿り着く。
末の妹(4番目)の家だった。
道に迷ったと言うと父に電話してくれて迎えにきてもらうことに。

実は、病室に着いて直ぐのことだった。
昏睡状態で、「うー、うー。」しか言ってなかった母が、一言、「ナナミ」とつぶやいた。
まだ2歳の末の妹の娘の名前だった。
母は、生前、「100まで生きてナナミの花嫁姿を見る!」と言っていたらしい。
「お母ちゃん、うー、うーしか言えらんときにナナミ言うたわ。」と話すと
「ナナミ言うてくれた!」と言い、泣き崩れた。
「私も行ったら良かった!」と号泣した。

父が到着して、葬儀屋に戻る。
1番目と2番目の妹が着いていた。
しばらくして、島根県に住んでいる3番目の妹の家族、4番目の妹の家族も到着。
妹4人が、泣きながら母に化粧をする。

7:00からお通夜。
妹の友達も駆けつける。

皆帰り、父、僕、1番目と2番目の妹が泊まり込むことになる。
休憩室で仮眠をするが、皆、眠れない。
母の遺体が安置されているホールに行くと、父が、一人で遺体に話しかけていた。
夜中の3:00頃、突然、父が、帽子を被って部屋から出て行った。
妹が、「出て行くんやったら、明るなってからにしてよ!」と声をかけるが、そのまま、車に乗って
何処かへ行ってしまった。
妹が、家に電話をすると父が出た。
なぜ、こんな時間に家に帰ったのか?
どう考えても、子供の前で泣きそうになったので泣きに帰ったとしか思えなかった。
残った5人兄妹の上から3人。思い出話をする。

母は、貰い子だった。
本当の親や兄弟を知らずに育った。
だから、知らせる身内も親戚も居なかった。
財産といえば、5人の子供だけだと思った。
それで、16日に兄妹5人集合して見舞いに行こうという計画を立てていた。
結局、計画は、日取りが合わなくて中止になっていたのだが・・・。

母の人生を想った。
母は、父にベタ惚れだった。
周囲に大反対されながら、ボストンバッグと風呂敷づつみだけ持って押し掛け女房になった。
子供が5人生まれ、子育てをしながら内職を2つ掛け持ちしながら頑張った。
苦労ばっかりの人生だと思った。
でも、考えてみると、惚れまくった男の子供を5人生んで育て上げ、結局、父の方も母に惚れまくった。
最後は、一人息子に手を握られて天国に旅立った。
それは、女として勝利者だったのではないか?幸福だったのではないか?
そう思った・・・。

妹たち、その家族も到着。
父も、疲れきった様子で戻ってきた。
やっぱり、家で一人泣いていたのだ。
母の小学校以来の親友も駆けつけてきた。
「寂しなるわ・・・。」と繰り返し言い泣いていた。

11:00から葬式。
それから、火葬場へ行き、遺体が焼かれる間、黒い集団で、イオン洲本店のレストランで食事。
火葬場へ戻り、骨あげ。
その時、驚くことがあった。
通常、女の人は、喉仏が残らないらしいのだが、母の場合、完全な形で残っていた。
仏さんが、手を合わせて座禅を組んでいる姿で顔に目や鼻もあり彫刻みたいだった。
「お母ちゃん、身体の中に仏さんがおったんや!」と思った。
母がどんな人だったと語る人が皆、「気さくで明るい可愛い人だった。」と言う。
76歳になっても、皆、可愛い人だったと言うのだ。
機嫌のいいときに歌ったり踊ったりしていて「何、浮かれとんね!」とウザく思ったりしていた。
「こんな貧乏まみれで何、面白いねん!」と思っていた。
あんな貧乏まみれでも母は、幸福を感じられる人だったのだ!
孤独な子供時代を過ごして来たので家族7人の生活が楽しかったのだ!
あんなに朗らかで明るく優しかったのは、身体の中に仏さんが居たからなのだ!

寺で遺骨法要遺骨は、そのまま寺に預けて四十九日まで追善法要をしてもらうことになる。
そこで解散。
名前だけ喪主だった僕は、火葬場まで霊柩車で行っていたので父の車で葬儀屋まで送ってもらう。
あとの始末を、父に任せ、一人暮らしの団地へ帰る。

一人になると、「お母ちゃんは、もう居ない。」という事実が身に迫ってきて涙が止まらなくなる。
もう「良かったな!頑張ったな!」と褒めてもらえない。
家に帰っても、「お帰りよー!」と言ってもらえない。
僕は、まだ感覚的なものだが、父は、どうだろう?
86歳になって10歳年下の配偶者に先に死なれて、思い出の品が溢れた家で一人暮らすのだ。
大丈夫なのだろうか?
それと今更ながら、何も、親孝行をしてこなかった事が後悔された。
2010年に結婚50周年の金婚式だったのに、お祝いはおろか「おめでとう!」と一言も言わなかった。
ずっと以前に父から、「いつか子供等で金を出しおうて、お母ちゃんと旅行に行かしてくれ。」と
頼まれていたのに・・・。そのチャンスだったのに・・・。

泣きながら子供時代のモノクロの写真を見た。
まだ20代の若い母が、僕を抱いている写真が大量に出てきた。
撮影しているのは、父なので、母が抱いている写真ばかりだ。
その、どれもが、笑顔だ。めっちゃ、笑顔なのだ。
「好きで堪らない男の子供を私が生んだ。」という幸せに溢れた笑顔だった。

美容師だった母は、結婚して仕事を辞めてしまった。
神戸で修行をした腕を惜しんで、出資してやるから独立して店を持たないかと
言ってくれる人がいたらしい。
それを母は、断った。
理由は、「子供と一緒に居たいから。」だった。

「お母ちゃん、親孝行、何もせんでゴメンよー。」と泣きながら呟いた。
写真から、母の声が聞こえた気がした。
「あんたは、生まれて来たことが親孝行やったんやで。」
「お母ちゃん!」また呟いて泣いた・・・。



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