震災の後で



隣の男
仮設住宅は、二部屋が繋がって一軒になっている。
四畳半と六畳の二部屋。
台所とトイレ(くみ取り)、風呂付き。
畳の隙間から地面が見える。
その隙間から大量のマル虫が這い上がってくる。
ブリキに覆われた四角い箱のようだ。
雨が降れば、大音響。
夏は強烈に熱く、冬は強烈に寒い。
壁は、ベニヤ板の様に薄く隙間が開いている。
だから、隣同士、まるで同じ部屋に住んでるみたいに音が筒抜けだ。
僕の隣に住んでいたのは、45歳位で独身の寿司屋で働いている男だった。
北海道から、流れてきた人らしい。
知りたくなくても、電話の声なんかが聞こえるのだ。
最初は、僕も救援物資の米をあげたりして仲良くしようと努めた。
でも、あまりにも無神経な男だった。
僕は、遠慮してTVを見たりCDを聴く時には必ずヘッドホンを付けた。
なるべく迷惑にならないように努力した。
隣の男は違った。
仕事柄、毎日帰ってくるのが遅かった。
酔っぱらって帰り、大声で歌を歌う。
ケツに響くような大音量でTVを付けて大声で笑う。
戸の開け閉めも乱暴で、地震か?と思うくらいの音を立てる。
毎日が我慢の連続だった。
さすがに僕も、ある日ブチ切れた。
壁にヘアブラシを投げつけ、「TVの音やかましいんじゃ!音、筒抜けなん分らんのか?ケツに響くんじゃ!」と怒鳴った。
シーンとなった。
しばらくして、ドンドンと、わざとらしい大きな足音を立て台所に行く音が聞こえたかと思うと、何かで壁を気が狂ったように思い切り叩き出した。
隣の若造なんかに負けたくないと思ったのだろうか?
その日は、怖くなって寝た。

店の若い男を部屋に呼び酒を飲みながら、「ワシも若いときは、むちゃくちゃやったんや。
気に入らん奴は、ブチのめしてきたんや。まあ、最近は、丸くなったけどな。ワッハッハ!」と騒いだ。

バカみたいに「北酒場」を何度も大声で歌った。
そんな毎日が続いた・・・。
一年程で、男は、仮設住宅から居なくなったが、時たま、思い出したように戻ってきた。
僕は、仮設住宅から逃げたくてノイローゼになりかけていたのに会社では、良いところに住まわせてもらえて得をしやがったなと言われた。

親戚のおっちゃん
1995年4月30日(日)
仮設住宅に、紀宮様が慰問に来て下さった。
僕は、嬉しがって後を付いて回った。
やっぱり我々とは違う雰囲気。
目が、澄んでいて、一点の曇りも無い方だった。
親戚のおっちゃん(親父の兄)は、握手して頂いたらしい。
天皇陛下の写真を部屋に飾っている親父は、しきりに羨ましがった。
おっちゃんは、大層自慢したらしい。
このおっちゃんには、四人の息子がいた。
そのうち三人が、子供の時に死んでしまい、残った息子とは、折り合いが悪く一緒には住んでいなかった。
まるで、寂しさを埋めるかのように、起きてる間は、一心不乱に仕事をしていた。
僕を子供の時から、自分の子供の様に可愛がってくれて、大阪からUターンしたときも、仕事と住む家の世話をしてくれた。
それが、地震で仕事場が潰れた。
まるで、元気が無くなっていた。
1995年7月3日の朝。
親父からの電話で、2日におっちゃんが倒れて救急車で運ばれたことを知る。
僕は、2日、神戸へ遊びに行っていたので留守にしていたのだ。
8日、県立病院におっちゃんの見舞いに行く。
息子が看病していた。
「お前も、親孝行せなあかんぞ。」と言われた。
おっちゃんは、口もきけないくらい衰弱していた。
身体を動かすのを手伝ったが、紙のように軽かった。
その後、もうすぐ退院すると聞いていたので見舞いに行かなかったが、
7月22日、親父からの電話で、おっちゃんが病院で亡くなったことを知る。
23日、おっちゃんの葬式。
仕事だけが生き甲斐だったおっちゃん。
死ぬ間際に、紀宮様に握手してもらえて良かったな。

S先生
S先生は、親父の姉で、実家から数歩歩いたところに嫁いだ。
小学校の先生を定年まで勤めたので、兄妹や親戚からもS先生と呼ばれていた。
旦那さんは、子供一人を残して戦争で死んだ。
だから、S先生は、女手一つで一人息子を育てた。
一人息子は、野球が得意で、巨人の川上哲治が見に来たりしたこともあったそうだ。
大阪で、商業カメラマンをやっていたが息子二人を残し若死にした。
僕等兄妹も可愛がってくれて、よくカレーパーティを開いてくれた人だった。
自宅が修復されて仮設住宅から戻ったS先生は、地震の時、世話をした親父とお袋のために刺身パーティを開いてくれた。
お袋が、何気なく「いっぺん腹一杯、刺身を食べてみたい。」と言ったのを
憶えていてくれたのだ。
僕も、呼ばれた。
お袋は、上機嫌であった。
9月23日、僕は、義援金を使って、教習所に通い始めた。
会社がなかなかOKしてくれなくて通えなかったが、パートのオバサンがうまく部長に言ってくれて通えるようになったのだ。
S先生も喜んでくれて、免許証がもらえたら見せてくれと言われた。
12月20日
自転車が壊れたので、昼、修理に出す。
その帰り道、洗濯物を干しているS先生と何気ない話をする。
12月21日
昼飯を食べていると、食堂「仲よし」に親父が来て、僕の耳元で呟いた。
「S先生、死んだぞ。」
S先生の家に行くと、先生は眠るように死んでいた。
近所の人が新聞が取り込まれていないのを不審に思い、家を覗くと こたつでTVを見ながらうたた寝している姿勢で死んでいたらしいのだ。
それで、連絡を受けた親父が飛んできたのだ。
親父は、葬式の準備に走り回る。
僕は、一人S先生の横に座り、しばらく家の番をした。
そして、仕事に戻り、終了後お通夜に出る。
翌日22日、教習所の卒検をキャンセルし昼まで仕事をしてから S先生の葬式に出る
25日、卒検合格。
年が明けて、1996年1月5日。
明石の試験場に、試験を受けに行き一発で合格!
普通自動車免許証を受け取る。
実家に電話をして合格したことを言うと、親父は、「ありがとー!」と叫び、 電話越しに万歳三唱をしてくれた。
実は、親父は去年、兄妹を3人続けて亡くしていた。
良いことが何も無い年だったのだ。
久しぶりの良いことだったのだ。
僕は、受話器を握ったまま泣いた。

盗人
今は、もう定年になって辞めているTさんの話だ。
この人は、昔から外注に出して僕が関わっていない仕事でも「お前が紛失した!」とか
言いがかりをつけて食って掛かってきたりする人だった。
実は、僕のお袋が若い頃、この人のお母さんが経営する美容院で働いていた関係で
僕を「使用人の息子」という目で見ていた帰来がある。
その日も用事で事務所に行くとTさんが僕を見て大きな声を出した。
「おっ!盗人(ぬすっと)来た!」
いきなり、そんな事を言われビックリしているとTさんは、まくし立てた。
「お前、震災でよーけ義援金もうたやろ!
何で何も被害を受けてないお前が貰えてワシが貰えらんのや!?
お前もオカシイと思うやろ?
ワシャ、お前の顔を思い浮かべながら役場に文句言うたんや!」
実は、Tさんの息子さんも神戸で文化住宅に住んでいて被災して、僕と同じ半壊の認定を受けて
その義援金は貰っていたのだ。
Tさんは、さらに役場に掛け合って自分の分もお金を貰おうとしていた。
全壊や半壊の認定を出していたのは役場である。
なぜ僕を目の敵のように非難するのか?
それは、どう考えても「使用人の息子」に対する目だとしか思えない。


今は、2005年1月。
震災から、10年・・・。
その後も自然災害は起きている。
報道されない「影の部分」が存在しているだろう。
被災していない人は、仮設住宅に無料で住まわせて貰ったり義援金を貰ってる人を羨んだりする人がいるだろう。
でも、例えお金を貰っても「盗人」とか「震災成金」とか言われる人生が良いとは思えない。
僕を含める被災者の立場から言わせて貰えば地震なんか起きない方が良かったと全ての人が思っているだろう。



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