阪神淡路大震災



1995年1月16日(月)
成人の日の振り替え休日。
実家に帰っていた僕は、昼過ぎまで寝ていた。
あまりのだらしない生活振りを親父に説教される。
会社の近くの借家に一人で住んでいて、実家に帰ったときは、
いつも親父に車で送ってもらっていたのだが、途中までしか送って貰えず、バスで帰った。
免許証を持っていなかったので、親父を怒らせると不便だった。
夜、年明けからプレイしていたSFCソフト「ファイヤーエムブレム」をやる。
このゲームは、他のゲームと違って、キャラクターが死ぬと生き返らせる事が出来なくて、
僕は、一人でも死ぬと、リセットしてマップの最初からやり直していた。
難しいゲームだ。意地になっていた。
昼過ぎまで寝ていて目が冴えていたので、徹夜でやろうと思った。

1995年1月17日(火)AM5:46
ゴーという地鳴りが聞こえ、地面がグラグラ揺れた。
「珍しいな。地震や。」
僕は、気にも止めずに、ゲームを続けた。
次の瞬間、ドーーーーーンと地面が持ち上がり、家全体がユラユラ揺れて、
波の高い日に、船に乗ったような感じになった。
電気が消えて、真っ暗になり、バリバリバリと天井が音を立てた。
僕は、慌ててこたつに潜った。
大音響が辺りに響いた。
「アカン!僕は、死ぬ!」
僕は、こたつの中で丸くなり、手を合わせ、「南無妙法蓮華経」と何度もお題目を唱えた。
やがて静かになり、電気もついた。
恐る恐るこたつから顔を出してみた。
何もかも滅茶苦茶だった。
25型の大きなTVは、こたつの上に倒れている。
部屋中、瓦と土に埋まり、壁にはヒビが入り、天井の板は、めくれている。
部屋半分の床も、地面に落ちている。
何もかも倒れている!
12日にSATYで買ったミニコンポも、瓦が直撃したのか、ボコボコになっている。
これは、何なんだ!?ただの地震じゃないだろ!!
倒れたままゲーム画面を映すTVを起こし、電源を切る。
実家に電話すると、何とか無事みたいだった。
土埃のせいか、のどが強烈に渇くので、外の自動販売機に缶コーヒーを買いに行く。
家が軒並み倒れ、瓦礫の山を越えて行く。
自動販売機の前では、店のおばちゃんが、「こんなん初めてや!」と半泣きになっていた。
缶コーヒーをまず飲み、続いて、近所に住んでいる親戚の家の様子を見に行く。
親父の実家(親父の兄夫婦が住んでいる。)、S先生の家(親父の姉で、一人暮らし。元小学校の先生。)のところへ。
行ってみると、叔母ちゃんとS先生が、近所の人と、固まって話をしていた。
「おっちゃんとこも、先生とこも大丈夫やったん。ほんだら、僕、自分とこに戻るわ。」と
家に帰る。
ジャージ姿で裸足につっかけを履いて、走り回ったので、足にマメができ、潰れて汁が出ていた。
家の中の瓦と土を外に出し、TVをつけ、ボーッと眺める。
小雨が、天井の穴から降り込む。
町内会の人が、「ケガはありませんか?」と見回りに来た。
昼前に会社の人が、様子を見に来て、「こんな状態なので、ちょっと休ませて下さい。」と言う。
金物屋で、金槌やら、ガムテープやら買い込み、応急処置。
どっと疲れてTVを見る。
倒れた高速道路、倒壊したビル、駅、燃える町並み・・・。
次々とTVに映し出される信じられない光景。
時間がたつにつれて増えていく犠牲者の数。

1995年1月18日(水)
会社休む。
親父が、カップヌードル等を持ってきてくれた。
「水道止まっとるから、食べれらんわ。」と言うと、「そうか。気付かんかった。水も買うてきたら良かったのう。」と
寂しく言われる。

(ガスはプロパンだから、大丈夫だった。)
親父は、ボロボロになった自分の生まれ育った実家を見てショックを受けていた。

1995年1月19日(木)
会社に行って、「まだ、仕事に出れる状態でないんですよ。」と言うと、
社長が、「誰か手伝いに行ったれ。」と言ってくれ、Kさん、Nさん、Oさんが、屋根にビニールシートを貼るのを
手伝ってくれた。

お袋が来て、皆さんにお礼を言う。
昼は、近所に住むMさんが、「こんなんしか無いけど。」と、僕等4人にカップヌードルを出してくれた。

1995年1月20日(金)
家の入り口に隙間が出来き、鍵がかけられない状態だったが、会社に通い始める。

1995年1月22日(日)
自衛隊の人が、瓦礫の片づけに来てくれる。

1995年1月23日(月)
毎日、昼飯を食べに行っていた「仲よし」が、営業再開。

少しずつ、生活が元に戻り出す。
でも、いつも行っていた銭湯が倒壊していたため、風呂は隣町までバスで入りに行く。
時たま、水道が止まった時は、給水車まで、水を汲みに行った。
親父とお袋は、おっちゃんの家とS先生の家の手伝いに毎日通っていた。
(親父は、その頃、失業していた。)
余震が何度もおきて、そのつど、崩れ掛けの家で肝を冷やす。

1995年1月27日(金)
役場で、仮設住宅の申し込み。

1995年2月3日(金)
親父の実家が、解体され、更地になっていた。
(おっちゃん夫婦は、息子の住んでいる西宮に移っていた。)

1995年2月8日(水)
役場で、被災者証明書(半壊)をもらう。

1995年2月20日(月)
役場から、仮設住宅に入居が許されたと知らせの電話があった。

1995年2月21日(火)
役場で、仮設住宅の契約をする。

1995年2月26日(日)
役場で鍵を受け取り、赤帽に頼み仮設住宅に引っ越す。
「こんな時やから。」と1万円で、やってくれた。
部屋の中には、山のような救援物資が積まれていた。
親父が来て、「引っ越し祝いじゃ。」と、こたつの掛け敷き布団を買ってくれた。
その時には、おっちゃん夫婦とS先生も、仮設住宅に移っていた。

1995年7月3日(月)
朝、親父からの電話で、2日におっちゃんが倒れて救急車で運ばれたことを知る。

1995年7月8日(土)
県立病院におっちゃんの見舞いに行く。
息子が看病していた。
「お前も、親孝行せなあかんぞ。」と言われた。
おっちゃんは、口もきけないくらい衰弱していた。
身体を動かすのを手伝ったが、紙のように軽かった。
その後、もうすぐ退院すると聞いていたので見舞いに行かなかった。

1995年7月22日(土)
親父からの電話で、おっちゃんが病院で亡くなったことを知る。

1995年7月23日(日)
おっちゃんの葬式。

1995年9月23日(土)
僕は、義援金を使って、教習所に通い始めた。
S先生も喜んでくれて、免許証がもらえたら見せてくれと言われた。

1995年12月20日(水)
自転車が壊れたので、昼、修理に出す。
その帰り道、洗濯物を干しているS先生と何気ない話をする。

1995年12月21日(木)
昼飯を食べていると、食堂「仲よし」に親父が来て、僕の耳元で呟いた。
「S先生、死んだぞ。」
S先生の家に行くと、先生は、眠るように死んでいた。
近所の人が、新聞が取り込まれていないのを不審に思い、家を覗くと
こたつでTVを見ながらうたた寝している姿勢で死んでいたらしいのだ。
それで、連絡を受けた親父が飛んできたのだ。
親父は、葬式の準備に走り回る。
僕は、一人、S先生の横に座り、しばらく家の番をした。
そして、仕事に戻り、終了後、お通夜に出る。

1995年12月22日(金)
教習所の卒検をキャンセルし、昼まで仕事をしてから、
S先生の葬式に出る。

1995年12月25日(月)
卒検合格。

1996年1月5日(金)
明石の試験場に、試験を受けに行き、一発で合格!
普通自動車免許証を受け取る。

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1997年4月12日(土)
僕は、仮設住宅を出て、震災復興住宅に移った。



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