OZAKI



1985年3月10日、僕のお婆ちゃんが死んだ。
父方の祖父は、親父が子供の時に亡くなっていたし、母方の祖父母は、
僕が、まだ物心が付く前に亡くなっていた。
だから、僕にはお爺ちゃんもお婆ちゃんも居なくなってしまった。
僕は、その時、22歳で大阪で暮らしていた。
葬式に出るために11日に淡路島に帰った。

親父とお袋は、お通夜に行っていた。
夕食を食べ、TVを見ていたけど手持ちぶさただった。
ふと、当時高校生だった妹のカセットラックを見ると「尾崎豊」と書かれたカセットテープがあった。
「尾崎豊」という新人アーチストの名前は、音楽雑誌で知っていた。
「歌う金属バット」と称されていた。
それが何だか嫌だったし、自分より年下の男のミュージシャンの曲を聴く気になれなかった。
なのに、その時は、聴きたいという気持ちになった。
流れてきたのは、アルバム「17歳の地図」と1月に発売されたシングルの「卒業」だった。
「尾崎、ええやんか!」
僕は、いきなりファンになってしまったのだ。
当時の都会で一人暮らしをしていた僕の心情にはまってしまったのだ。

自分の背広を持っていなかったので、親父にお下がりを貰い、
12日の葬式に出る。終わると、すぐ大阪に戻った。
15日に21日発売の「回帰線」の予約、17日に「17歳の地図」を購入。
どちらもLPレコードだ。

7月23日、当時働いていた車のエンジンの組立をしている会社を辞めた。
失業状態になり、毎日、ブラブラしていた。
28日に梅田のプレイガイドを通りすがりに何気なく覗くと「尾崎豊コンサート」の文字が!
8月25日、大阪球場、内野席で2,200円。即、買った!
「尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで」を読み、気分も盛り上がる。

そして、8月25日、大阪球場。
僕は、まだ失業中だったけど、尾崎を生で見れるのだ!
それまで、アイドルのコンサートにしか行ってなかった僕は、度肝を抜かれた。
それは、ロックショーだった。
何かに憑かれた様に歌い、駆け回る尾崎。
空に浮かんだ満月すらセットの様だった。

尾崎は、人気絶頂の時、突然、ニューヨークに行き休業宣言をする。

1986年11月6日、サンケイホールで「尾崎豊フィルムコンサート もっともっと速く」を見る。
会場は、尾崎の髪型、服装を真似た尾崎モドキで溢れていた。
尾崎の関連本も読みあさった。
尾崎は、すでに神様扱いされていた。
僕は、尾崎の信者になる気はなかった。
浜田省吾や佐野元春、渡辺美里に興味が移り、ただ、尾崎の新作が出たら
買って聴くだけになっていた。
尾崎と美里が同じ日に大阪でコンサートをやり、僕は、迷わず美里のコンサートに行った。

尾崎は、その後、覚醒剤で捕まったり斎藤由貴と噂になったりしたが
相変わらず人気は絶大だった。
ただ、10代のカリスマと呼ばれていることが何とは無しに不安な感じがしていた。

時は流れ、僕は、30歳になっていた。
1992年4月25日。
淡路島にUターンしていて印刷会社で仕事中だった。
仕事場のラジオから信じられないニュースが流された。
「ミュージシャンの尾崎豊さんが亡くなりました。」
尾崎が死んだ!
それも、野良猫が路地裏でのたれ死にするように!

5月、予約していたCD「放熱への証」を買って聴いた。
帯には、こう書かれていた。
「生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。」

2002年、僕は、40歳になった。
尾崎が死んで10年だ。
メッセージソングがダサイと言われていた時代に、胸を張ってメッセージを送った尾崎。
顔をクシャクシャにしながら汗みどろでシャウトした尾崎。

尾崎よ、あんた年下やったけどカッコ良かったで。
僕も、ブザマでダサクても詩うよ。
愛すべきものすべてに・・・。


OZAKI



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