河合奈保子の時代



ヤング・ボーイ
僕が、高校三年生の時だった。
お袋が買っていた「週間明星」に新人のアイドルが紹介されていた。
西城秀樹の妹募集でグランプリを取った河合奈保子という女の子だった。
僕は、そのページを切り取り、生徒手帳の表紙に入れた。
その頃の僕は、聴いてる音楽も洋楽主体でアイドルの音楽を聴くことは
恥ずかしいことだと思っていた。

(こっそり大場久美子とか石川ひとみは聴いていた。)
そんな偏見など吹き飛ぶ可愛らしさを河合奈保子は持っていた。
レコードもデビュー曲の「大きな森の小さなお家」から買い始めた。
世間では、同時期にデビューした松田聖子が大人気だった。
それでも僕は、断然河合奈保子派だった。
文化祭の時、生徒会から体育館で行われるステージの幕と幕の間に
何かやってくれと頼まれた。

なぜか僕は学校で「お笑いキャラ」として定着していた。(僕は、ツッパリのつもりだった。)
そこで僕は、歌を歌った。
「カリフォルニア・コネクション」、「別れても好きな人」(女の子とデュエット)、そして
「僕の大好きな河合奈保子の『ヤング・ボーイ』を歌います!」と前置きして「ヤング・ボーイ」。
僕は、自分が河合奈保子ファンであることを全校生の前で宣言した。
ウケたかどうかは分からない・・・。

ラブレター
高校卒業後、大阪に出て最初に行ったコンサートは、
1981年7月19日(日)に大阪厚生年金大ホールで行われたサマーコンサート
“スマイルフォーミー”だった。

ステージ上段に太陽をイメージするオブジェがキラキラ輝き、
それが上に上がると後ろに奈保子ちゃんが
立っていたのだ。
生で見る奈保子ちゃん!

席は3階だったけど会場の熱気も凄くて大フィーバーをした。
当時、僕は製パン会社で苦渋の生活を送っていたのだが奈保子ちゃんには励まされた。
それから暫くして僕は、製パン会社を辞め、アパートで一人暮らしを始めた。
それから奈保子ちゃんが番組の収録中に大怪我をして入院したことを知る。
数ヶ月後、コルセットを付けたまま「夜のヒットスタジオ」に新曲「ラブレター」を引っ提げて復帰。
沢山の千羽鶴をつり下げた木のセットの中、親衛隊と共に歌う奈保子ちゃんに感動。
その頃の闘病生活は、後に「わたぼうし翔んだ」という本に書かれたが、これも感動的だった。
「聖子はエライ。奈保子はアホ」とよく言われたが、実は、しっかりした女の子であることが分かった。
その後、会員番号が何万代になるのが嫌で入会してなかったファンクラブにも入った。

奈保子ちゃんの手
「唇のプライバシー」が発売された時、握手会が開かれた。
1984年9月23日(日)、千里中央セルシー広場。
奈保子ちゃんは、6852人と握手したらしいが、そのうちの一人が僕だ。
両手でフワッと包み込むように手を握り、奈保子スマイルで「どうも、ありがとう!」と奈保子ちゃん。
奈保子ちゃんが目に前に居る!今、僕の手を握ってくれている!
「頑張って下さい!」と言ったつもりだったが緊張して口をパクパクさせただけだった。
おまけに頭がボーっとして足がもつれてコケそうになった。
チャンスは、もう1度やってきた。
「デビュー〜 Fly Me To Love」が発売された時に再び握手会が開かれたのだ。
1985年5月3日(金)憲法記念日、千里中央セルシー広場。
ラジオで奈保子ちゃんと一緒にDJをやっていた嘉門達夫もTVの収録で来ていた。
「頑張って下さい!」、「どうも、ありがとう!」、今度は、はっきり言えた。
これが、僕と奈保子ちゃんの最初で最後の会話である。
1985年10月6日(日)にファンの集いがよみうり文化ホールで行われ参加費も払っていたが
寝坊して行けなかった。

奈保子ちゃんの声
奈保子ちゃんが嘉門達夫と共にMBSラジオ「ヤングタウン」火曜日のDJを始めた。
僕もハガキを出し、ボツになりながらも何度か嘉門達夫に読んでもらって
奈保子ちゃんに笑ってもらった。

やがて「奈保子が芯を取るコーナー」が始まった。
これは、お笑い抜きで奈保子ちゃん一人で真面目にハガキを読むコーナーだった。
そこでも僕のハガキが読まれた。
1984年10月24日(水)の深夜12時過ぎだった。
何度も僕の名前を読んでくれた奈保子ちゃん。
これまた快感だった。しっかりカセットテープに録音した。僕のお宝である。
(発売されたばかりのデビュー5周年記念の写真集も貰った。)

色紙事件
僕が奈保子ちゃんのコンサートに行ったのは、合計8回だ。
その8回目にあたる1988年3月12日(土)、大阪厚生年金大ホールで行われたコンサートで
僕は、とんでも無い光景を目にした。
そのころの奈保子ちゃんは、自作曲を歌うようになり、以前ほどヒット曲が出なくなっていた。
時代もニューミュージックのアーチストが全盛になり、アイドルにとって不利な状況だった。
いつもなら後半のノリの良い曲の時には、会場総立ちで奈保子コールの嵐が吹き荒れるのに
誰も立とうとしないのだ。
おまけにあろうことかアンコールの時、最前列に陣取っている数人がステージ上の奈保子ちゃんに向かって
ロビーでレコードを買うと貰える奈保子ちゃんの直筆色紙を手裏剣のように投げつけたのだ!
奈保子ちゃんは、「色紙を投げるのは止めようね。危ないからね。」と穏やかに言って、
それを拾い
ピアノの上に置いて曲を歌った。
が、あの時、奈保子ちゃんの心は、どれほど傷ついたことだろうか?
忙しい合間を縫って自分のレコードを買ってくれている人に書いた色紙・・・。
それから奈保子ちゃんは、定期的に開かれていた大阪でのコンサートをやらなくなった。
活動もミュージカルやドラマ中心になっていった。

さよなら奈保子ちゃん
1989年、奈保子ちゃん初主演のミュージカル「THE LOVER in ME〜恋人が幽霊」の
招待状が届いた。
入場者が少ない場合、無料で入場出来るらしい。
10月28日(土)、大阪のリサイタルホールへ走った。
しかし、満員で当日券を買わないと入場出来なかった。
実は、翌日の10月29日(日)には、フェスティバルホールへ佐野元春のコンサートへ行くことになっていて
お金が無かった。
それで、柵の外から中にいる奈保子ちゃんのマネージャー与膳さんを見つけ
「パンフレットだけでも欲しいんですけど。」と声をかけパンフレットを購入した。

これが、奈保子ちゃんの近くに行った最後となった。
僕も聴く音楽は、尾崎豊や浜田省吾等のロック系ニューミュージック中心になっていた。
そういう系統のファンクラブに入会し始めた為、奈保子ちゃんのファンクラブも辞めた。
「ヤングタウン」も聴かなくなった。
ドラマに出る奈保子ちゃんにも違和感を感じてTVも見なかった。
僕は、1990年9月に大阪を離れて淡路島にUターンした。
やがて奈保子ちゃんが婚約したというニュースをワイドショーで見た。
そして出産・・・。
奈保子ちゃんをTVで見ることも無くなった・・・。

奈保子ちゃん再び
2001年夏・・・、僕は、新聞で懐かしい広告を目にした。
「河合奈保子 JEWEL BOX NAOKO SINGLES COLLECTION」
CD4枚セット+特典DVD+豪華ブックレット付き!
奈保子ちゃんの全シングルAB面72曲収録で全曲完全デジタル・リマスタリング!
予約特典は、アイドル時代のポスター!
値段は税込み10,500円で高かったが、即、予約した。
発売が近付いた9月、予想外の事が起きた。
予約をしていたSATYが倒産して注文していたCDが入らなくなったと電話がかかってきたのだ!
速攻で他の店で注文したがギリギリで予約特典は無いかも知れないと言われる。
当日、9月29日、「河合奈保子 JEWEL BOX」無事入荷!
しかし、僕が金欠の為買えず。
10月1日、やっと手にする。ポスターも有り。
それは、まるでタイムカプセルのようだった。
アナログレコードで揃えていた曲達がCDとして蘇っていた。
ひとつ年下で同時代の青春を駆け抜けたアイドル河合奈保子・・・。
あなたは、紛れもなく僕の青春でした。
暗い鬱々とした時代を照らしてくれた太陽でした。
奈保子ちゃんの歌が語りかけてきました。
情熱を無くしたら終いなんだと。
僕は、河合奈保子のファンであったことを誇りに思います。

河合奈保子 JEWEL BOX



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