入院生活



1989年(平成元年)10月、尻にデキモノが出来た。
それと同時に胃の具合も悪くなり、仕事中に胃袋を掴まれるような激痛に襲われ
アパートの近くの病院に行った。
薬をもらって、暫く様子をみることにした。
相変わらず胃の激痛は治らなかったが、大したことはないと思っていた。
念のため27日に胃のレントゲン撮影をする。
これまた大したことはないと思い、29日には、佐野元春のコンサートでフィーバーした。
31日には、胃カメラを飲む。
その時、潰瘍が見つかり内視鏡で削り取られ、即、入院することになった。
会社に行き、事情を説明し、実家に電話を入れた。
親には、見舞いに来なくてもいいと言った。
病院で寝ている姿を見せたくなかったのだ。

千里丘中央病院210号室。
4人部屋だったが先に入っていた人は、いかにも中間管理職風の小屋原さん1人だった。
毎日のスケジュールは・・・。

6:45 起床
7:15 検温
7:45 朝食
10:00 点滴
12:15 昼食
14:00 検温と回診
15:00 点滴
17:30 夕食
21:00 就寝

7:00と14:30には自分で炊事場へお茶を汲みに行った。

飯は、毎回、水みたいなお粥だった。
あまりの不味さに臭いを嗅ぐだけでエズいた。
梅干しを買ってきて、それと一緒に流し込んだ。

1人部屋に、いかにも不良中年という感じで病室に酒を持ち込んだりしていた人がいた。
あるとき、その人が僕の食事を見て激怒して食事係の若い女の子に詰め寄った。
「この兄ちゃんの飯、見てみい!こんなもん食わせとるんか!ブタのエサやないか!」
女の子は、何も罪が無いのに「すみません。」と謝りながら泣いてしまった。
せっかくその女の子は毎回僕に病室まで食事を運んでくれていたのに、それからは
自分で食事を取りに行かなくてはならなくなった。

入院中、不味い飯に耐え続けたみたいだが、実は、近くのコンビニでお菓子とかを買ってきて
こっそり食べていた。
コーヒーも隠れて飲んでいたし、止められていたタバコもスパスパ吸っていた。
たまに院長に見つかり「キミは治す気が無いのか!?」と怒られた。

見舞い客もやってきた。
11月2日には、妹。(プリンを買ってきた。)
11月6日には、事務員の社長の妹さん。(会社から見舞金1万円。)
11月13日には、アパートの大家さん。(見舞金3,000円。)
11月16日には、社長の奥さん。(また見舞金1万円。)
11月18日には、会社の同僚の女の子SさんとKさん。(見舞金3,000円。)
(Sさんに吉本ばななの「キッチン」を貸してもらった。)
11月19日には、妹。(饅頭を買ってきた。)
11月22日には、会社の同僚の女の子SさんとKさん。
(会社に置いてあった僕のラジカセを持ってきてくれた。)

入院というのは不思議なもので、同じ部屋に住む人を家族のように思ってしまう。
11月6日に浜田さんという人が210号室に入ってきた。
中年の人だったが耳が不自由だったので、何を言ってるのか分からなかった。
でも、一緒に寝起きをしていると言葉が判別出来てきた。
彼は、痔で入院していて手術をした直後は寝たきりになっていた。
でも、傷が治ると豪華な食事を食べ始めた。
耳は手術すれば聞こえるようになると聞き、僕と小屋原さんは、家族のように手術を勧めたりした。
11月22日に小屋原さんは退院し、27日に西村さんが入ってきた。
西村さんは、初老の人で何度も手術を繰り返したらしく首からヘソにかけて凄い手術跡があった。
点滴中にトイレに行きたくなったら協力し合った。
他の部屋の人も皆、親切で明るく、冗談ばかり言っていた。
僕も毎日笑って暮らした。
昼間は寝るか本を読んで過ごしたので夜はなかなか寝付けなくてカーテンを閉めて100円を入れて見るテレビを見ていた。
見回りの懐中電灯が近付くとサッと寝たふりをした。
テレビの光がチカチカして迷惑だったと思うが、若い兄ちゃんだということで苦情を言われたりしなかった。
隠れて買ってきたお菓子を皆で分けて食べるのは楽しかった。

風呂は、病院にもあったが外出許可をもらって近くの銭湯に行った。
途中、速攻でアパートに帰ったりした。
「若い男の野暮用」があったのだ。
色っぽい看護婦さんがやってきて、「私がしてあげる♪」と言うのはAVの中だけの話である。
看護婦さんは、イメージと違って、サバサバした男っぽい感じの人ばかりだった。
さすが大阪の看護婦さんで、患者を笑わせてばかりいた。

ある夜、病室があまりに寒いのでエアコンの温度を上げてほしいと事務所まで談判に行った。
すると薬剤師の若いお姉さんが若い宿直の医者といちゃついていた。
僕が、「病室、寒いんですけど。」と言うと薬剤師に「きまりですから!寝て下さい!」と一喝され
僕は、お熱い二人を尻目に寒い病室に戻った。

退院したのは、12月2日だった。
それから18日に職場復帰をするまで自宅療養で病院に注射を打ってもらいに通った。

翌年1990年9月に僕は、淡路島にUターンした。
田舎に戻るきっかけになったのが、この入院生活だった。
「身体を壊してまで大阪にいる意味があるのか?」と親父に言われた。
僕には、反論出来なかった。
僕が大阪にしがみつく理由は何も無かった。

僕は、大阪での9年半の暮らしを回想した。
そのなかで1番楽しく笑い人と関わったのが胃潰瘍での入院生活だった。

大阪に何も未練は残らなかった・・・。



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